姿勢と動きのよしだ塾

姿勢と動きをデザインする専門家の発信。体軸、体幹についてわかりやすく学べる場にしていきます。

ただ腰痛をなくすだけじゃ面白くない

昨今、働く環境でみられる腰痛とかの健康状態を良くしようという流れが出てきてる。

 

特に、健康経営®️という概念は中小企業にはまだ浸透していないけど、大企業では当たり前のようになってきた。

(健康経営®️に関しては改めて書くとしよう)

 

僕の職業でもある理学療法士の中でも、「産業リハビリテーション」として企業への予防活動に参入していて、僕自身もそこに食い込もうとしているわけなんだけど、なんとなく

「腰痛いですよねー。腰痛予防しましょう。そしたら仕事の効率も良くなるでしょう。」

では面白くないというか端的すぎるなーと思ってしまう。

(注:この分野で最前線で活躍している方たちはそんなに端的なものでやっているわけではないし、その方達への批難ではありません。)

 

僕の中で『働く』っていうのは人生に直結するものだと考えている。

yoshidacom.hatenablog.com

 

それくらい重要な『働く』だからこそ、「腰痛があるからなくしましょう」ではなく、もっと根本的なところで、腰痛がないのはもちろん、それ以上に「働くために必要なカラダ作りを習慣化しましょう」っていうのにしたい。

 

じゃあ「働くために必要なカラダ」ってなんだってことなんだけど、現時点で僕が考える働くためのカラダに必要な前提条件はこの4つだと思う。

・冷静な判断を持って働けるカラダ

・情熱を持って働けるカラダ

・強い意志を持って働けるカラダ

・外見も内見も良い姿勢で働けるカラダ

 

この4つを持つためには、腰痛とか心身の不調があったら持つことができないし、この4つが備わっていればそもそも心身の不調なんて起きない。

 

「働くためのカラダ」ってしたけど、前の記事にも書いたように、僕の中では収入があるかないかに関わらず人生のすべての時間が『働く』をしていて、今更だけどここでの「働くためのカラダ」っていうのは「人生を楽しむためのカラダ」ってことで、その考えでも、冷静な判断で、情熱があって、強い意志もあって、さらに良い姿勢ってなったらなんか良さそうでしょ。

 

「そんなのカラダ作りでできないよ」っていう人もいるかもしれないけど、実はこれ、カラダ作りとしてできちゃうわけだ。

 

しかも、それにてっぺんはなくて、自分が鍛錬し続ければ極限まで追い求めれちゃう。

そう、まさに極めれちゃうんだ。

 

だから、僕はどうせなら

腰痛をなくしましょう!

じゃなくて、

もっと根本的な極みまでいけちゃうカラダを作ろうよ!

っていうのを届けたいと思っている。

 

『働く=人生』みたいに言っちゃったけど、とりあえずは一般的にいう働いている人に向けてそういうのを発信していこう。

 

 

 

 

 

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やる気、根性だけを主張して働くのはもう時代遅れ

 

働いていると、一度は言われたことがある、聞いたことがある、もしかしたら言ったこともあるかもしれない言葉。

 

「やる気出せ」

「根性でしのげ」

「死ぬ気でやればできる」

 

的な精神論。

 

まぁ確かに働いていれば美学だけでやっていくのも難しいのは事実で、時には精神論的なもので踏ん張らなきゃいけないときもある。

世の中の働いている人ですごい人は何度もそういう根性みたいなものでやってきた時期もあると思うし、いつも根性でやっているという人もいるだろう。

 

でも、そういう精神論的なものだけで働くのって実際無理で、現代ではそれだけ言うのはもう時代遅れって思うわけです。

 

僕自身、平成生まれなので、ゆとり世代の甘ちゃんが何を言ってるんだと思われるかもしれないが構わない。

というか、僕も働くのを甘くみている人を見るとイラっとする。

 

精神論も大切なのはわかっているけど、精神だけではヒトとして形にならなくて、ヒトとして形になるために、そして精神が入るための器になるものとしてもっと大事なものがある。

 

そう、カラダだ。

 

まず、僕と同世代の若者は、生まれながらにして昔よりも便利な世の中にいる。

車がない世の中も知らないし、大抵は近くにスーパーやコンビニが量産しているし、昔に比べたら随分楽な生活をしていると自負している。

 

要は、昔に比べたら日常的にカラダを使う量が圧倒的に少なく、楽な生活になればなるほど意識しなければカラダの使い方も下手くそになっていくわけだ。

 

何が言いたいのかというと、精神よりも大切なものがカラダであって、そのカラダの使い方が下手くそになっているんだってこと。

つまり、穴の空いた器に何をいれてもないものになるのと同じで、カラダの話をする前に精神論を問うのはどうなのかって話だ。

 

そう考えると、バリバリの経営者や凄腕の営業マンとか、すごい働ける人って、ほとんどの割合でジムとか最近だとボルダリングとかでカラダを動かしていて、逆にカラダを動かしていない人のほうがあーだこーだ言われてる。

 

カラダがしっかりと整うことで、初めて精神論を問えるようになって、そうなってしまえば多少の根性は標準装備として持てる。

 

 

「いや〜カラダづくりが大事なのはわかってるし、でもそうは言っても運動が好きじゃないんだよなー。」

そう思った人は少なくないと思う。

 

しかし、ここで朗報だ。

運動が好きじゃない、苦手な人でも、カラダの使い方が学べる場がある。

 

それがBodyline Schoolだ。

石川県(金沢市)と福井県(福井市敦賀市)で毎月定期的に開催しているこのスクールは、運動が苦手な人やカラダづくりが大切だとわかっていても一人でできない人たちが集まる場だ。

 

なんか働いていても精神論的なことしか言われない、それしか言えないという人がいたら、ぜひ参加してみてほしい。

 

 

気になった人はすぐチェックしよう。

 

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楽しい人生のための『働く』を支えるもの

 

僕なりに感じる『働く』という言葉について。

 

 

『働く』という言葉を聞いてみんなは何を感じるだろう。

 

「楽しい」や「やりがいのあるもの」というポジティブなものもあれば、「辛いけど収入のために仕方なくやっている」、「楽しくない」というネガティブなイメージを浮かべる人もいる。

 

意味合いとしては、【働く=仕事】としてほとんどの人が使っていると思うが、僕はなんとなくこれに違和感を覚える。

 

仕事とは、漢字で表すと「事に仕える」だ。

ニュアンスとしては、与えられたことに従うというようなやらされてる感が否めない。

 

元々の語源は、「しごと」の「し」は動作とか行為とかいう意味を表す「為(す)」の連用形で「ごと」は「事」、つまり「為事(すこと)」=「すること」という意味で使われていたらしく、「すること」=「するべきこと」と同意ということで、徐々に生きていくために「するべきこと」というふうになったらしい。

 

まぁどちらにせよ、「生きるために嫌なことでもやるよ」っという雰囲気が全面に出ている言葉として捉えちゃうわけで、だからこそネガティブなイメージを持っちゃうんだろう。

 

 

じゃあ『働く』もそんな意味なのかってことだ。

 

『働く』は「傍楽(ハタラク)」と書いて、「傍(ハタ)を楽にする」、つまり、「身近な人を楽にする」という意味で表したりする。
良い成り立ちだなーと思っていたけど、これは語源ではなく言葉遊びで作ったらしいからこれだけではちょっと物足りない。

 

てことで、素直に『働く』から改めて考えてみる。

 

漢字の構成としては「人が動く」で『働く』。


さらに、ほとんどが中国から輸入されてきた漢字に対して、国字という日本で作られた漢字もあり、『働く』がまさにその国字で、中国に逆輸入されたらしい。

 

「人が動く」ときは、自分の心が動いたり、誰かのためや社会のために、と思うとき。
まさに日本らしい、日本の心が込もった、国字にふさわしい、おもてなしの漢字が「働く」なのだ。

 

つまり、『働く』は「仕事」とは同義でネガティブなものではなく、日本だからこそ生まれた言葉でありポジティブな要素が根底にある。

 

 

ここで一つ疑問に思う。

こんなに素晴らしい言葉のはずの『働く』がどうして「仕事」と同じ意味合いでネガティブに捉えられているのか。

 

 

それを紐解くために歴史を追ってみた。

 

『働く』という漢字が国字として明記されたのは江戸時代くらいからとどこかに書いてあった。(違ってたら正解を教えて欲しい)

 

江戸時代といえば、今でいう一般の人の農民とかですら、その身体の使い方は現代のトップアスリートくらいだと言われている。

確かに何百㎞も自分たちの足で江戸まで荷物を持って移動していたのだから、負担の少ない効率的な身体の使い方ができていないと無理な話だ。

 

試しにGoogle先生に聞いてみたら、僕が住んでいる石川県から東京まで歩いたら4日かかるんだって。

一回も休まないでこれだから、きっと休みながらだったら1週間くらいかな。

山も超えるしね。

たぶん、石川県を出る前にやめちゃうね。


そんな距離を、江戸時代とかの人たちは、『働く』としてやっちゃってたわけだ。

たぶん家族のためにやらなきゃいけないんだってのもあったと思うけど、だからと言ってやれと言われてできるレベルじゃない。

現代なら「パワハラだ!!」とか言っちゃうレベルだ。

 

それくらいの『働く』なのにやれちゃってたのは、その『働く』を支えることができる効率的な身体の使い方のおかげだったんだと、時代背景からも示されている。

 

 

現代において『働く』ことは人生のほとんどの時間であり、『人が動く』となればそれこそ人生そのもので、言っちゃえば収入が得られるかどうかに限らず、

赤ん坊が泣くことも

園児が外で遊ぶことも

義務教育で学校で勉強することも

部活動で汗を流すことも

好きな人にフラれて泣くことも

友達と飲み潰れることも

上司と部下の板挟みで働くことも

老後に隠居生活することも

生を受けてから命尽きるその瞬間までの全てが『働く』ということ。

 

 

つらつらと能書きを垂れてきたが、要するに何が言いたいのかというと、『働く』ことが人生を楽しくするかどうかを左右しちゃって、その『働く』を支えるのが自分自身の身体の使い方なんじゃないかなって提起したかったわけだ。

 

体験談でもあるんだけど、身体が変わるのってすごい楽しいことなんだよね。

身体の使い方が良くなるといろんなことに前向きになれるし、やらされているだけの仕事も、主体的な『働く』になれる。

 

 

ただ、だからと言って

「身体の使い方が大事ですよ〜。みなさん身体を動かしましょ〜。」

なんて言ってやる人がいないのも知っている。

 

 

 

どうせやるなら、みんなで楽しみながらやりたいし、

あれ?いつのまにか身体が楽になってる

あれ?『働く』のって楽しいじゃん

あれ?人生楽しめてる!

ってなったら最高だなーっと妄想してる。

 

 

 

まだまだほとんどが妄想だけどちょっとずつ始動していて、そういうのを届けたいっていうのが今の率直な想いっていう話でした。

 

 

 

 

 

日記としてブログをリニューアル

今までアメブロでブログを書いてたけど(最近はあまり更新できてなかったけど)、ブログっていうとなんとなく「少し頑張って記事書かなきゃ」って感じがしちゃって、書き手側がそんな感じだと読み手側も大変だなと勝手に思っちゃったわけです。

 

てことで、もっと手軽に、それこそ絵日記みたいな感じにしたら書き手も読み手もいいんじゃないかということでリニューアルしてみた。

 

まぁ絵心ないから絵は描けないんだが…

 

 

とりあえず、カラダのこととか、最近は『働く』ということを少し真剣に考えたりしてて、【カラダ×働く】を大枠とした日記にしてみようと思う。